吾輩は作曲する猫である。

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ひらめきに関する考察

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作曲という行為には、多かれ少なかれ、インスピレーションが伴う。

インスピレーションなしには作曲できない。

 

アルノルト・シェーンベルク は著書『作曲の基礎技法』の中で、次のように述べている。

学生にとってもっともむずかしいことは、インスピレーションもなしにどのようにして作曲するか、その方法を見つけることである、ということがよくわかった。その答えは「不可能」ということだ。
アルノルト・シェーンベルク『作曲の基礎技法』

 

 

作曲に限らず、創作というものは「ひらめく」「思いつく」の連続行為だとも言える。

そしてAという「ひらめき」を、BやCという他の要素と結びつけていき、具体化していく。

 

全体にも、細部にも、このようなことは当てはまる。

新しい構成を持った作品を生み出したり、きらびやかで魅力的なメロディを思いついたり、感動的なハーモニーが頭の中で鳴り響いたり。

そしてそれらは必ず、他の要素と結びつくのだ。

つまりインスピレーションとは、全体においても、部分においても、音楽を創作する上での「始まり」であり、「過程」ともなり得るし、「終わり」ともなり得る、まさに作曲の全行程において必須のものと言えるであろう。

 

それにもかかわらず、学生たちは、作曲しなければならないのだから、助言が必要になる。役に立つただ一つの方法は、問題の解決法はただ一つではなく、非常にたくさんあるということを、わからせることであるように思う。
アルノルト・シェーンベルク『作曲の基礎技法』

 

作曲はインスピレーションのみでするわけではない。

もしインスピレーションだけを使って作曲するのであれば、音楽理論音楽大学などは、その存在意義を失うことだろう。

 

書籍や講習から学んだことだが、脳科学的に「ひらめく」と「思い出す」は、脳のまったく同じメカニズムの、同じプロセスを持った働きだということが立証されているそうだ。

したがって、より多くのものを知っている者が、より多くのものを発想できるということになる。

かの天才ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトも、父親のほどこした十分すぎるほどの教育と「同時代の誰よりも勉強した」という本人の言葉通りの勤勉があってこそ、神々しいまでの才能を見事に昇華させ得たのであろう。

インスピレーションは、まさに勉強の賜物であり、その種類や選択肢は無数にあるのだ。

 

作曲の技法とは、それ自体が目的ではなく、大事なのはインスピレーションである。だから作曲をする際はイメージを大事にし、それを表現するために技法を使う。決して技法のみが前面に出るような作曲を行ってはならない。
アルノルト・シェーンベルク『作曲の基礎技法』

 

自分の拙い経験から思うに、インスピレーションとは「始まりのようなもの」「部分的な何か」であるという気がする。

そしてそれを、自らが持つ技法によって、実際の音楽として作り上げてゆく。

そしてインスピレーションと技法は、まったく別のものではなく、インスピレーションの中にも技法は含まれるし、技法を駆使する際にも、インスピレーションは絶えず誘発されているのだと考える。

 

「ひらめきは作業の代わりにはなれません。しかし作業もひらめきの代わりにはなれない。作業が無理矢理ひらめきを生ませることもできない。同様に情熱も無理矢理ひらめきを生まれさせることはできない。ひらめきと作業の両方が揃ったとき、特に両方が融合したとき、ひらめきが誘発される。ひらめきは、ひらめきが生まれたいときに生まれる。私たちがひらめきたいときには生まれないのです」
マックス・ウェーバー『職業のための学問』

 

インスピレーションは、音楽的な形をしているとは限らない。

もちろん実際のメロディやリズム、ハーモニーの場合もあるが、それ以外の形で現れることもあるのではないだろうか。

 

ではどのような時に、インスピレーションは姿を現し、我々の実際の創作を助けてくれるのか。

その辺のところを、先程も引用した、マックス・ウェーバーの著書『職業のための学問』は適切に言いあらわしている。

 

実際、最高のひらめきは、イェーリングが生き生きと描いているように、ソファに座って煙草をふかしているときとか、またヘルムホルツが自然科学者らしく厳密に述べているように、長い坂道を登っているときとかに現れます。言い換えれば、机に向かって頭をかきむしっているときや答を探し求めているときにではなく、いつだってまったく思いがけないときに現れてくるものなのです。だからといって、机に向かってもだえ苦しまない人や、問題を発見する情熱を持ったことのない人には、やはりひらめきは現れません。
マックス・ウェーバー『職業のための学問』

 

インスピレーションはすべからく、情熱や苦悩の末や後の、リラックス状態から生み出されるのではないだろうか。

リラックスしている時、人は脳の広い範囲を活性化させているそうだ。

確かに悩みに悩んで、諦めて帰る道すがら、歩いている時や、電車の中などで、インスピレーションが訪れることが多々ある。

 

そして、私の拙い経験を言わせていただくと、ピアノや五線譜の前で悶え苦しんだ経験+音楽を聴く、という行為の後に、インスピレーションが訪れる場合が多いのだ。

 

これはいわゆる『パクリ』とは違う。

模倣やアイデアの提供でもない。

もちろんそうとも言えるかもしれないが、もっと根源的な何かをもらうのだと思っている。

音楽を聴くことで、自分の過去の経験として蓄積され、それが「思い出す」こととほとんど同義語である「ひらめき」という行為、つまりインスピレーションを誘発するのではないだろうか。

作曲のプロセス〜私の場合

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「作曲ができるなんて、才能がおありなんですね」
というお声がけをいただくことがある。

この言葉に私は、お褒めの言葉として基本的には好意的に受け取りつつ、それと同時に何か少し突き放されているような感覚を持つ。

音楽を実際に作り、教えていると、「作曲とは必ずしも才能のみの賜物ではない」ということがわかるからだ。

 

才能のみが大切であれば、私のような凡人には作曲はできないであろう。
才能のみが大切であれば、教育にできることはないはずである。

 

もっとも、作曲という行為に、ある程度の神秘性を感じる人が多いのは事実かもしれない。

イメージとして、雷に打たれたような一瞬のひらめきによって、ピアノや五線紙に向かい、一心不乱に作りあげる…そんな感覚はあるだろう。
現に私自身も、作曲する前までは少なからずそう見ていた。

 

そこで、私自身の作曲のプロセスをまとめてみたいと思う。
世界中の作曲家たちが、まったく同じ方法で作曲するわけではもちろんないが、何人かの現役作曲家にも共感を得た内容なので、当たらずとも遠からずな面も多々あるかと思う。

 

設計図を作る


私はほとんどの場合、まず作品のコンセプトや構成を盛り込んだ設計図を作成する。

形式を決め、拍子や調性、主題の性格、響きやムード、長さなどを一覧表にまとめる。
推移部分には転調へのプランを、展開部では何を展開させるか、そして内包するイメージや場面など、現時点でのアイデアをなるべく精細に、言葉で書き込む。

 

言葉にできるということは「意識化」、「概念化」、「具体化」などができているということなので、言葉にすることは大切だと思う。

 

メモやスケッチをとる


次に、私は音符でメモやスケッチをとることにしているが、この段階こそ、作曲の過程において本質的・核心的な部分だと思っている。

 

まずメモだが、それは内なる霊感(思いつきともいえる)に頼る部分が大きく、主題やその取り扱い、知識や技法の適用、響きの想像などを、ほぼ反射的、本能的におこなっていく。
先ほどの設計図をもとに、部分ごとの主題や展開方法などをメモっていく。

 

ここではやはり"インスピレーション"と"技法の基盤"が頼りになる。

少し話が脱線するが、"インスピレーション"とは多分に"経験値"のことだと思っているので、聴いたり作ったりしてきた経験がここで"インスピレーション"という無意識的な回想によって引き起こされる。
そういう意味において反射的、本能的である。
「おお、神よ!」という懇願に対して答えてくれる"奇跡"の正体は単に"無意識の階層に眠る自分の記憶"ではないだろうか。

 

同時に"技法の基盤"は行き詰まった時の解決法を提案してくれる"ツールの入った引き出し"のようなものだと思っている。

また、イメージを大切にしつつも、新たに学んだことや、未知の技法への実験や挑戦をおこなうこともある。

 

「反射的」と書いたのは、スピードもまた、大切だからである。
着想は、ともすれば逃げだしていったり、あまりにもこねくり回すと原型や魅力を失ったりする。
早い決断が必ずしもいい結果を生むとは限らないが、とにかくまず決断して前に進むことが大切だと思う。
検討・検証は、後からじっくりすればいいかなぁと。

 

次にスケッチですが、大方4声体で書くと決めている。
これは吹奏楽の世界では押しも押されぬ有名作曲家である酒井格さんに教わり、実践している。
同じく吹奏楽作品で有名な保科洋さんは、Saxophone四重奏をまず書いて、スケッチとするそうだ。

すべての響きは4つの声部で表わせると言う。
ただ、リズムパートを書き込んだり、パッシングフレーズを入れたり、どうしても薄くしたり厚くしたい部分では、もちろん声部の数に変化がある。

 

オーケストレーションと精査


スケッチが完成すれば、作曲は少なくとも8割は完成したのと同じである。
スケッチにはある程度のオーケストレーションも含まれているので、あとはスコアに写し、肉づけをしていく。

この段階での悩みは、声部と楽器の音域に気を配ること。
欲しい音色と音域が一致しないことも多々ある。
その場合はかなり悩んでしまう。

 

またオーケストレーションにおいては「合成音」という考え方もある。
幸い管楽器出身で、弦楽器も少しかじったので、それがかなりの力になっていると思う。

 

そして完成したものを拡大・縮小したり、足し算・引き算したり、間違いを探して修正したりする。

 

最後にレイアウトを整える。

もちろん、歌ものだったり短い曲なら、いくつかの行程を端折ったり、頭の中だけで処理したりもする。

 

以上、私の作曲のプロセスの紹介でした。

曲名(タイトル)のつけ方

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① (歌詞のない)音楽作品は、曲名(タイトル)なしで聴いても、その曲の内容がきちんと伝えられるように作ることを心がける。


② 曲名(タイトル)と音楽の内容やボリュームが少しも乖離せず、ピッタリと寄り添うように気をつける。


③ そのためにも曲名(タイトル)は絶対に先につけず、曲の完成後につける(先に仮でつけるならならまあよいが、なるべくそれもつけない方がよい)。

作曲に音楽理論は必要か

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「音楽(作曲)に理論は必要か」という議論は、古今東西尽きることがない。

まず私の見解を申しあげると、「あった方がよい」ということになる。

 

「感覚と理論のどちらが大事か」という趣旨と混同されがちだが、音楽理論とは2500年に及ぶ大作曲家たちの感覚を体系化したものであり、それを学ぶことは感覚を磨くことと同意なのである。

「音楽はセンスでしょ」という方にこそ、ぜひ音楽理論を学んでいただきたいと思っている。


音楽の初学者が学ぶ音楽理論の代表的なものに「楽典」がある。

 

 

 

 

「楽典」は音楽の語法ともいうべきもので、音楽の世界における基礎的な共通言語といえる。

これが理解できないということは、音楽の世界において生きていくことは不可能、とまではいわなくとも、いろいろな障害が生まれることは予想される。


例えばお互いが「リンゴ」のことを概念として知っていれば、それは「リンゴ」という単語において、それ以上の説明はしなくとも共通のイメージや理解が得られるのと同じである。

もし知らなければ「赤くて丸くて、甘い果物」というふうに、いちいち説明する必要が生じるかもしれないし、サクランボやイチゴを想像することはもちろん、相手によってはベリーやパッションフルーツなどをイメージするかもしれない。


「あった方がよい」という主張は消極的だと思われるかもしれないが、それは「なくてもどうにかなる」とも思っているからである。

大作曲家の素晴らしい音楽世界に触れずとも、自分なりの世界で音楽を楽しみながら生きていく、これもまた音楽に対するひとつの態度だと思う。

ただし、よほどの天才でない限り、その世界は狭く貧しいものになりそうである。

大作曲家たち、とまではいかなくとも、共通言語を持つ他の音楽家との交流は制限され、また「楽譜」という音楽書物の意味も、自分なりにしか読み解けないであろう。


「アフリカのジャングルの奥地から、モーツァルトは生まれない」という言葉がある。

これはモーツァルトがアフリカの音楽家より優れているというたとえでは、もちろんない。

アフリカのジャングルの奥地にも、素晴らしい音楽文化はあると思う。

ただし、西洋音楽を奏でるモーツァルトが育つ環境にはないということである。

かのモーツァルトも、もちろんアフリカの素晴らしいリズムなど思いも及ばないはずだ。

人は聴いた音楽、学んだ音楽に影響を受けて育つのである。


「理論によって感性が鈍る」という方もいた。

確かに、理論至上主義・理論偏重主義という弊害も、ないとは言いきれない。
しかし、ショパンドビュッシーなどの少なからぬ大作曲家たちも、理論を「あえて」守らず、素晴らしい音楽を創り出している。


「あえて」と書いたが、彼らは理論を知らなかった結果、名曲を生み出したのであろうか?

いや、知っていたはずだ。

知らずに守らないことと、知ってて守らないことは、まったく違う世界なのである。

どこかの漫才ではないが「となりのトトロ」を観た後は、観なかった世界には戻れないのだ。

それは双方向に決して行き来できない世界なのである。


そして「あえて」守らずに生み出されたその偉大なる発見は、次の世代に新たな理論を提供してくれるのだ。

シェーンベルクの12音技法は、ベートーヴェンの作曲法とは違う。

ベートーヴェン式に言えば「間違って」いるのである。

しかし、シェーンベルクは作曲技法の著書において、ほとんどベートーヴェンの譜例のみを、数多く引用している。

それは彼がベートーヴェンの作曲技法を深く研究し、精通していることを証明している。

その上で「あえて」違う音楽を作曲しているのだ。


極める必要はまったくない。

そんなものはゴールでも何でもない。

しかし、自分なりの理論の勉強というがんばりは、必ずその人の音楽によりよい感覚をもたらしてくれると思う。


私の作曲の師は「理論を勉強すれば作曲ができるようになるわけではないが、引き出しが増える」という言い方をされていた。

存在しない引き出しはもちろん開けられないが、そこにツールが入っている引き出しが存在していれば、当然開けることもでき、「あえて」開けないこともできるのである。


理論を使うことを選択できる自由を得るということは、音楽を今よりも楽しむ自由を得ることに他ならない。

 

 

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