音楽という労働
音楽は本来、生存に必要のないものだ。
2011年、東日本大震災の時、つくづく思った。音楽ができるということが、一体何になるのか。生きるうえで役に立たないじゃないか。被災された人々を救えないじゃないか。それのみを追求してきた自分は、やはり本質的に無力だし間違っていたのだと。
サバイバル術のひとつふたつを習得したほうが、よほど世のため人のためになるんだと。
趣味である登山も、その頃に始めた。登山が、というよりは、いざという時に、大切な人をひとりでも救うことのできる自己を作り上げるためだ。
暗い夜の街を歩きながら、ロウソクの炎で暮らしながら、はじめは恐ろしかった。だが次第に慣れていった。
夜は暗い。
そんなことを忘れていた自分に気づいた。そして暗い夜に慣れ、安心するようにまでなった。物や灯は少なくなったけど、これこそ人間らしい、自然だと、思うようになった。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。街はまた明るくなり、物はあふれた。あれは想定外で、原発は完全に管理下に置かれ、安全安心だと、また動きだした。次第に生活はもとの便利さを取り戻し、夜の街は明るさを取り戻していった。
そして、それとともに、人々の精神はまた痩せ細り、貧しくなってゆくように思えた。
音楽は本来、生存に必要のないものだ。
しかし、生存するためだけではなく、生き抜くためだけに過ごすのではない時間がまた訪れた。
そんなときこそ、音楽が必要なのかもしれない。
尊厳、名前、自尊心、民族心、美に対する意識…これらは皆、生存のみとは結びつかない。
しかし、これらは時に、生存すること自体よりも、はるかに重い価値を持つ。
人は1曲の歌に、希望を見いだすかもしれない。愛を育むかもしれない。つながりを感じるかもしれない。世界とか人間の可能性や素晴らしさを実感するかもしれない。
音楽というものは社会と関わってこそ、価値を持つものだと思っている。
私の師は、
「作品が演奏されることに重きをおく」
という座右の銘を持っている。
大衆や社会に理解されがたい専門性の高い作品や演奏、コンセプチュアルな音楽は、それそのものは尊いかもしれないが、やはりつながりが弱いことが多々あるように思える。
音楽(Music)の語源が「調和」であるという根源的な解釈からしても、音楽は自分の大切な人や社会、コミュニティと関わってこそ、その価値が生まれるのだと思う。
そしてそのために働く。
労働は喜びだ。
そして労働の喜びとは、社会や人への奉仕だ。
苦労しないで喜びなんてありえない。
快楽なら苦労しなくても得ららるが、自分が得たいのは喜びであって、快楽ではない。
自分のようなしがない音楽家であっても、人や社会にとって奉仕できる場があるのなら、それを続けていくのみだ。
それこそが音楽を続ける意味であり、すなわち、音楽家として生きるということであり、奉仕と喜びに満ちた、音楽という労働である。