有難い出会い
幸せも不幸せも、すべては他人様からいただく。そしてそれを幸せと感じるか不幸せと感じるかは、自分が決める。自分が成熟すれば、出会いは財産になる。
思えば成熟するのが遅かった私は、成人あたりから出会いに恵まれている、と自覚するようになった。
学友たちとの出会いには感じなかったが、大学の恩師との出会い、そしてその後の人生での出会いには、本当に幸運と感謝を感じている。
成熟とは、人生に主題や問いを持つことだと自覚している。
その主題上の出会いや、問いに真剣に向き合ってくださった方々との出会いは、まさに私の人生を方向づけ、決定してくれた。
そしてそのような方々は、同じように人生に主題と問いを持っていた。
我ながらよい出会いに巡り会えた、幸運な人生を歩んできたと思う。
そして、私もそう思えるような人になりたい。
なる、ならないは、それを目指すことを諦めずに歩んでゆく過程のことで、もちろん結果論であるから、自らコントロールすることはできない。
ただひたすら、目指して歩き続けるのみである。
それは有難いものであるゆえに。
ホンモノの条件
これまでの音楽人生の中で、たくさんの「ホンモノ」に出会った。もちろん音楽的な実力は言わずもがなであるが、それ以外にも共通点があった。それは「自分の持っている知識や技術を惜しみなく提供してくれる」ということだ。
音楽の習得には、途方もない財力と修練の努力、そして才能が必要である。
出会った方々の中には、自らが苦労して得た知識や技術をもってふんぞり返ったり、出し惜しみする方々もいた。しかし、そのためにいろいろなものを犠牲にしてきたのだから、というその気持ちもわかる。「ニセモノ」と呼ぶには少々気が引けるので、「ホンモノではない人」たちと呼ぶことにする。
しかし、ホンモノたちは違うのだ。彼らは持っているすべてを提供してくれる。
それはなぜか?
いろいろな理由があろうと思うが、私が目指すホンモノの基準にのっとると、次のような理由が考えられる。
いつも感謝の気持ちを持っている
人はひとりでは人格や能力を開発できない。
出会い、もらい、教えられ、影響を受けて、得られるのだ。そしてそれは、人智を超えたものによるのである。もちろん才能や努力は必要だが、それ以上に、幸運によってもたらされるものではないだろうか。そして、それらに感謝するということは、極めて人間的なことではないだろうか。
私の出会ったホンモノたちは、本当によく感謝する。なんなら教えを受けている私にまで感謝するのだ。感謝するからこそ、謙虚になり、人が集まってくる。人が集まってくるから、自ずと教えを受けることができ、影響を受けることができるのである。だから、さらにホンモノになってゆく。
もうひとつ、これはよく聞く言葉だが非常に共感する考え方がある。それは、「恩はおれに返さなくていいから、次はおまえが、ほかの困っている人を助けてやれ」という考え方だ。
代をつないで、感謝をつなぐ、この考え方に、私は非常に共感するのである。
捨てるから入れられることを知っている
何でもかんでも得ようとすれば、その欲によって人は破滅する。
得ようと思えば、何かを差し出したり、犠牲にしたり、捨てなければならない。物に限らず、知識や技術であろうとも、この原則は変わらない気がする。
最近聞いた書道家の話である。
ある書道家は若かりし頃、血の滲むような努力の末、自分の独特な書法を編み出した。その後、書道家は一切の学びを絶ち、自身の書法のみにこだわり、ついに世に捨てられてしまったのだ。
特定の知識や技術に固執すると、人は柔軟さを欠き、成長は止まる。
世界は変化してゆくのだ。そして、その変化に対応してゆくためには、自分も変化してゆくしかない。そして変化とは、捨てることである。入れるために捨てるのだ。
音楽のみならずである。
ベートーヴェン型とモーツァルト型
作曲家には2つのタイプがあると、昔、師から聞いたことがある。
それぞれについて、このように聞いた。
ベートーヴェン型
このタイプは、いわゆる構築型。
ひとつのモチーフや主題を非常に大切にし、こねくり回し、ギリギリまで展開させることをモットーとする。
そのため、作品は極めて論理的であり、非常に有機的で、あたかも建築のような作曲をする。
ただし、発想には乏しく、いつまでも同じ素材に固執する。
モーツァルト型
このタイプは、いわゆる思いつき型。
次々とモチーフや主題が湧いてきて、きらめくような魅力的な音楽を作り出す。
そのため、作品は極めて新鮮であり、非常に自由で、その音楽はとても魅力に富んでいる。
ただし、統一性、論理性に乏しく、作品に脈略がなくなる可能性がある。
ちなみに私は後者で、
「君の曲はもう少しじっくり検討した方がよい」
と、よくご指摘を受けた…。
以後、気をつけてます…。
スランプ脱出法
作曲にもスランプがある。
そしてスランプが訪れるたびに、
「ああ、私の発想は枯れてしまったのか…」
などと思う。
ひどい時は、もう、ひとつの音符さえも置けなくなったのではないか、とさえ思ったことも多々ある。
過去の作品を眺めてみても、
(これ、本当に俺が作ったのか⁈)
と疑ってしまう。
そしてスランプの時は決まって、デスクやキーボードに向かっても、すぐにスマホをいじったり、他のことをしてしまう。
(こんなんじゃダメだ!)という敗北感と焦燥感は、スランプ状態をさらに加速させる。
まさに悪循環が始まるのである。
…
だが、そんな幾多の危機を乗り越えて、今日の私がいるのである。
そこで、長年スランプを経験して、私なりの脱出法を編み出した。
作曲や編曲の時のみで、しかもこれが万人に適用される可能性は皆無かもしれないが、自分のために記しておき、もしかすると他人様の助けになるかもしれない。
音楽を聴く
現在向かっているジャンルの曲を数曲聴いているうちに、自然とヤル気や発想が湧くことが多い。
リファレンスの効果であろうか。
決してパクリではない、と言いたいところだが、人は聴いたことのある音楽からしか影響を受けないものであるから、この世の作曲家たちは、無から有を生み出した天才たち以外はみんな、基本的にパクリだと言っても過言ではない。
なのでよしとする。
歩く
デスクやキーボードから離れ、できれば外を歩く。
気分転換にもなるし、健康にもよい。
そして何と、楽想が降りてくるのである!
なぜかはわからないが、発想とはリラックスした状態の時に生まれやすいと聞く。
開放感と適度な運動が、発想を呼び寄せるのであろうか。
これと似たような効果を持つ行動に、
- 電車に乗っている時
- 自然に触れている時
- カフェでくつろいでいる時
などがあげられる。
諦めて帰る
これは…と思うかもしれないが、できない時は、いくらがんばってもできない。
よってダラダラと時間を過ごさず、パソコンを閉じ、早く帰ってご飯を食べてぐっすり寝る。
こうしておけば、無駄な体力や気力を使わずにすむし、休息による体力・気力の充実は、スランプを早く終息させてくれると思っている。
「〜でなければならない」「〜であるべきである」的な思考を捨て、「どうにかなる」「まあいいか」的な思考に切りかえるのである。
そして経験上、まさにどうにかなってきたのだから不思議である。
以上、これまでの経験から、スランプ脱出法でした。
音楽という労働
音楽は本来、生存に必要のないものだ。
2011年、東日本大震災の時、つくづく思った。音楽ができるということが、一体何になるのか。生きるうえで役に立たないじゃないか。被災された人々を救えないじゃないか。それのみを追求してきた自分は、やはり本質的に無力だし間違っていたのだと。
サバイバル術のひとつふたつを習得したほうが、よほど世のため人のためになるんだと。
趣味である登山も、その頃に始めた。登山が、というよりは、いざという時に、大切な人をひとりでも救うことのできる自己を作り上げるためだ。
暗い夜の街を歩きながら、ロウソクの炎で暮らしながら、はじめは恐ろしかった。だが次第に慣れていった。
夜は暗い。
そんなことを忘れていた自分に気づいた。そして暗い夜に慣れ、安心するようにまでなった。物や灯は少なくなったけど、これこそ人間らしい、自然だと、思うようになった。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。街はまた明るくなり、物はあふれた。あれは想定外で、原発は完全に管理下に置かれ、安全安心だと、また動きだした。次第に生活はもとの便利さを取り戻し、夜の街は明るさを取り戻していった。
そして、それとともに、人々の精神はまた痩せ細り、貧しくなってゆくように思えた。
音楽は本来、生存に必要のないものだ。
しかし、生存するためだけではなく、生き抜くためだけに過ごすのではない時間がまた訪れた。
そんなときこそ、音楽が必要なのかもしれない。
尊厳、名前、自尊心、民族心、美に対する意識…これらは皆、生存のみとは結びつかない。
しかし、これらは時に、生存すること自体よりも、はるかに重い価値を持つ。
人は1曲の歌に、希望を見いだすかもしれない。愛を育むかもしれない。つながりを感じるかもしれない。世界とか人間の可能性や素晴らしさを実感するかもしれない。
音楽というものは社会と関わってこそ、価値を持つものだと思っている。
私の師は、
「作品が演奏されることに重きをおく」
という座右の銘を持っている。
大衆や社会に理解されがたい専門性の高い作品や演奏、コンセプチュアルな音楽は、それそのものは尊いかもしれないが、やはりつながりが弱いことが多々あるように思える。
音楽(Music)の語源が「調和」であるという根源的な解釈からしても、音楽は自分の大切な人や社会、コミュニティと関わってこそ、その価値が生まれるのだと思う。
そしてそのために働く。
労働は喜びだ。
そして労働の喜びとは、社会や人への奉仕だ。
苦労しないで喜びなんてありえない。
快楽なら苦労しなくても得ららるが、自分が得たいのは喜びであって、快楽ではない。
自分のようなしがない音楽家であっても、人や社会にとって奉仕できる場があるのなら、それを続けていくのみだ。
それこそが音楽を続ける意味であり、すなわち、音楽家として生きるということであり、奉仕と喜びに満ちた、音楽という労働である。
常に行為する者であれ
中学2年生の頃に読んだ本の一節に、
「常に行為する者であれ」
という言葉があり、胸を打った。
それから、この言葉は、人生の座右の銘のひとつになった。
始めたことはやめるな。
継続は力なり。
批評する立場、評論家にはなるな。
人生の傍観者になるな。
…
いろんな意味が込められていて、なおかつ前向きな言い方も気に入っている。
人生のいろいろな場面で、この言葉を選択や価値判断の基準にしてきた。
ここまで何とか音楽を続けて来れたが、この言葉は一度や二度ではなく、私の背中を押してくれ、勇気をくれた。
そして、
「昔、◯◯をやっていた」
とか、
「◯◯だから、◯◯できなくなった」
という言い回しが嫌いだ。
人が使う分には別に気にならないが、自分は絶対にこういう言い回しをしたくない。
「できる、できない」
よりも
「やるか、やらないか」
に価値を置く。
ただ、やればいい。
それだけだ。
そして、やっている人、続けている人にだけ、言えることがある。
言う権利がある。
やりもせず、続けもしないのならば、言いたいことがあっても我慢して、黙っていなければならない。
そう思っている。
「常に行為する者であれ」
これからもそうありたいと強く思う。
重要なのは行為そのものであって、
結果ではない。
行為が実を結ぶかどうかは、
自分の力でどうなるものではなく、
生きているうちにわかるとも限らない。
だが、正しいと信ずることを行いなさい。
結果がどう出るにせよ、
何もしなければ何の結果もないのだ。
〜マハトマ・ガンジー